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NHK時計

2007年5月19日 (土)

似てないのに「似てる!」と思える人

ロナウジーニョと、大泉洋。

2007年4月 2日 (月)

岐阜県って元々は何?

 皆さんはタイトルのような問いを出されたらどうお答えになりますか。「社会が苦手なんだから、地元のことだって知らないよ!」てな方もおいでかもしれませんね。

 そういう方のために申しておきますと、ふつう美濃と飛騨とされています。この2つの国が今の岐阜県域を形成しているといわれています。

 しかし、物事には例外があるものです。岐阜県には実は、信濃国と越前国が含まれているのです。『日本分県地図』や『日本地名大事典』等ならその点も詳しく載っています。

 東海地方の方なら、前者については「ア!こないだ合併した山口村のことでしょ?」と思われるかもしれません。何しろ半世紀ぶりの県を越えた合併といわれ全国でも取り上げられたこともありますので。

 でも、これでは私にいわせれば50点です。その理由は、なぜ山口村が岐阜県になる道を選んだのかを考えれば、自ずと明白です。そう、山口村だった地域の一部が49年前、岐阜県に合併しているからです。

 この地域は神坂(みさか)地域といいます。昭和の大合併のときにこの地域は、岐阜県への合併派と長野県残留派に分かれて激しく対立し、血みどろの争いになりました。結果的に地区内に県境がしかれて県境が確定したものの、神坂小学校は長野県側と岐阜県川とに分かれ、どちらの県に住んでいるか関係なく住民が行きたいほうの学校に子どもを通わせていました。これは平成の大合併まで続いたんです。郵便番号も長らく長野県側の番号で設定されており、郵便番号簿を岐阜県側でみるとここだけ番号が飛んでいました。なお神坂村は、岐阜県側に入ったほうは中津川市になり、長野県に残ったほうはすぐお隣の山口村と合併して新たな山口村になり、その一部に収まりました。

 平成の大合併の嵐が来ると、山口村のうち旧山口村だった山口地区からみても眼下に中津川市(後に山口村と共に合併した岐阜県坂下町を含む)にみえるような地理的状況であるうえ、付近の求心力のある地域が中津川であることから、山口村ごと岐阜県中津川市に合併しようという話が持ち上がります。もちろん、「神坂問題」に決着をつける意味もありました。しかし双方の派に憶測があり、話し合いは難航します。結果的に山口村の村長の言い分が通った形になり、山口村は岐阜県へやってきたのです。地元では、例えば農協の出荷方法など諸システムが異なってくるので、いろいろ苦労があったようです。

 よく「島崎藤村で有名な馬籠宿が岐阜県になるのはどうも違和感・・・」という話を聞きます。そんなとき、私だったらこう申し上げたいところです。確かに馬籠があった山口村は岐阜県になった。でも、岐阜県になったって、もともとの神坂村全体を含め、中津川市山口地区は美濃ではなく信濃であり木曽なんだ、と。現住所は現在の生活を反映したものになっても、それで信濃や木曽だった伝統までが変わるわけじゃないんだよ、と。どうしてこういう視点で語る人が少ないのでしょう? 岐阜県になったら美濃(や飛騨)になるわけじゃあるまいし。

 もうひとつの「越前」は、今の郡上市白鳥町石徹白地区です。ここや旧徳山村もそうですが、地理的に行き当たりというか突き当たりになったところは、文化的にもふきだまりになっているようで、独特の文化が残っています。

 合併前の石徹白村は、『白鳥町合併二十年史』によれば、歴史的にも文化的にも近い白鳥町と合併したい、ということでしたが、白鳥町時代に役場に勤めていたある人は「岐阜県であるほうが、雪や交通等を考えると県庁に行きやすいからでは」と語っていました。なるほど、当時越美北線は勝原にも到達してない一方、越美南線はすぐ近くの北濃まで来て20年以上経ってますし、まだモータリゼーション到来前の話です。

 山口村と同様、石徹白村でも反対運動が起きたといいますし(ただし血みどろだったかどうかは不明ですし、先の合併二十年史によれば賛成派が多かったといいますが、地方自治体の史書は今の地元に都合よく書かれがちです)、福井県議会は合併反対でした。しかし、総理府裁定で岐阜県入りが決定しました。

 実は、この石徹白と神坂の合併は、同じ文書で決定通知がなされ、同一の期日に合併となったのです(先の二十年史による)。

 私は地域も個人も、小なるものをまず尊重するところから始めるべきだと思っています。ですから、いかに岐阜県の大多数が美濃や飛騨であっても、越前としての石徹白、木曽や信濃としての山口村は尊重されるべきであり、それらを含めての岐阜県なのだと思っています。岐阜県在住者や出身者も忘れがちなことですが、心しておくべきと考えます。

2007年3月28日 (水)

新しい自分へ

 昨年1月31日限りで、それまで14年間勤めていた会社を辞めました。

 もともと器用でもない者が運輸会社にいることには無理がありました。何をやらせても「どんくさい」し、私の場合つい考え込んでしまうクセもあり、常に自分らしさと正反対のことをせねばならない辛さがありました。

 しかし、辞めた理由はそれだけではありません。同族会社ゆえか上意下達の強さ。それでいて厳しい言動のわりに裏の評価が甘く、会社としていつまで経っても利益が出ない体質。会社としてはメインでない自分の仕事への周囲の無理解。・・・いろいろありました。

 世では転職のリミットは35歳といわれます。37歳で転職に踏み切るということは、それだけでハンディがあります。まして私には転職に生かせるような資格はありません。しかし前述の状況を考えると、これ以上前の会社にいるメリットはありません。進むも地獄、退くも地獄の思いでした。しかしどうせ地獄ならば、自分らしく生きたいと思いました。働きながら転職活動のできる状況ではなかったので、思い切って踏み切りました。

 辞めてはみたものの、自分がどんな方向に進んだらよいかも分かりません。沈思黙考が得意とはいうものの、それが具体的な職業に結びつくようにも思いませんでした。とりあえず事務か、地理好きなので旅行代理店も受けてみるのですが・・・ 事務だとキャリアが要ります。事務のような現業のような営業のような・・・という中途半端な仕事だった私にはマイナスです。旅行代理店だとやはり資格かキャリアが要ります。今更学者の道も遠いです。資格や大学院を考えると費用がかかりますが、そんなお金はありません。無理して違う仕事に就くと、あとあと私の心身にもマイナスです。今後ますます転職が厳しくなるというのに。14年働いて自己都合で辞めた場合、3ヶ月の待機期間を経て失業給付が6ヶ月間受けられることになりますが、果たしてその間に新就職先が見つかるのか・・・。

 そうこうしてるうちに、辞めて3ヵ月後の4月中旬、とあるNPO法人から土曜に面接し即内定を頂き、翌月曜から働くことになりました。このNPO法人は、企業や役所と多くのNPOとが協働できるように作られたもの(純民間)で、意義からすると面白そうに思えました。しかし実際には、まだ協働は軌道に乗っておらず、行政やその関連団体の助成を受けることが主な仕事でした。そうなると企画書が書けないといけません。企画書を書くためには、具体的に何をするか、何をどれだけ用意するかのセンスがないといけませんし、それに沿って予算をつけられないといけませんが、私にはそんなセンスはありません。残念ながら、やってゆけないことを自覚せざるを得ませんでした。そればかりでなく、代表理事といわれる人がすべてを仕切ろうとし、細かい点まで思い通りになってないとすぐキレるわりに自分の思いを具体的に伝えないことにも嫌気が差しました。結局1ヶ月強で辞めました。試用期間だったので退職金は当然ナシですし、働いた期間が短かったので新たに失業認定を受けるのではなく前の会社の失業認定期間に入るので、先行き不安です。

 就職活動をしつつ、次の機会が来たのはその年の7月でした。教材を編集する会社(事実上は校正が主な業務)でアルバイトに応募したのです。面接した感じでは、業績次第では正社員登用もあり得るということでした。入ってみると、ちょうと期限が迫っている仕事が多く、ライターさんが解いた問題をこちらでひたすらチェック(つまり自分も解いたり書式があってるか確かめたりする)してました。とてもやりがいがある仕事で面白かったのですが、やり始めた時期の仕事が途絶えると、仕事がだんだんなくなってきました。ついにある日、自宅待機を打診されました。9月でした。厚生年金に入ってる会社でしたので、国民年金免除の手続きもまたやり直さないといけません。いやそれより就職活動・・・。

 その後、11・12月と、社会的起業の講習を受けてました。これは県が雇用能力開発センター(国管轄)との共同企画ですので、費用がゼロなうえ失業給付が受けられます。もし会社に就職しても経営の基礎知識は得られますので、受けました。終わって5日後、ついに失業給付期間が終了しました。

 さて、実はここまでの間、少しでも収入が得られ働くことで精神的安定も得られるようにと、この年の3月から個人指導塾の講師をアルバイトでやるようになりました。といっても子どもを追い立てる進学タイプでなく補習型なのですが。個人指導ということになると、その子どもがどこでつまづいているかを客観的に把握する必要がありますし、学習内容に少しでも興味を持ってくれるよう楽しくやらないといけません。このあたり、いざやってみるととても面白く感じましたし、とても手ごたえを感じました。このことと、7月に全く別の団体が主催したサマーセミナーという「誰でも講師になれどんな分野でも講義できる」イベントに参加してくれた人の言葉により、「教える」仕事が向いているのではないかと思うようになりました。

 そこで、この年の年末から今年はじめにかけて、2つの学習塾に応募しました。年末に応募したところは蹴られましたが、今年はじめに応募したところには、1月末に内定をいただきました。しかも、今までやってきた学習塾と同じフランチャイズなのです。同じフランチャイズゆえ、かえって移籍が難しくなってしまい、今まで勤務していたところの契約の満了(3月28日)を待って働き始めることになりました。新勤務先のオーナー社長は、本当は2月初旬からA校で室長をやる想定をしていましたが、移籍遅れのためB校の副室長という形になりました。本部での研修も同様に2ヶ月ズレ込みます。

 で、きのう(27日)、最後の旧勤務先へ出発したのですが、途中で室長から、きょうは室長がかわって授業をするとの連絡を受け、最終回はなくなってしまいました。子どもさんには最後の授業である旨は言えないことになってますので、さようならはもともといえませんし、オーナーである室長が授業を代行することはきょう28日を含め数回あったのですが、当日に突然言われたのは初めてでした。あっけない幕切れにしばし呆然としました。

 今までいったい何社応募したでしょう。自分でもあまりに多すぎて数えられません。

 さあ、気分を切り替えて、あすから新天地での勤務が始まります。あす・あさってはアルバイト扱いながらフル勤務、来週から正式に正社員として働きます。管理業務が加わるとはいえ、今まで1年間やってきたことも多いので、今度こそ離脱することはないでしょう。年収300万にも満たない給料ですが、やりがいと働く喜びがせっかくありますので、無駄にしないようにしていこうと思っています。

2007年3月16日 (金)

私的ボンバルディア考

うみがめさんの「うみがめのスローライフ」の「ボンバル機胴体着陸」にトラックバックしています。(今までうみがめさんにしかトラックバックしてないのですが、あくまでたまたまです。)

 先日高知空港で、ボンバルディア社製飛行機の前輪が出ず胴体着陸するということがありましたね。

 ボンバルディアと聞いて私は正直「懐かしい!」と思いました。なぜなら、私は昨年まで航空貨物の仕事に携わっていたからです。

 航空というとまず旅客のことを指し、たまに航空貨物という言葉が出てきても国際貨物を指すことが多い日本の航空の世界ですが、国内航空の貨物もあります。とはいえ日本では、私の入社当時で航空会社の国内貨物の売上は国内総売上のわずか4%しかない(この数字は今も大差ないと思う)ため、旅客部門の意向が優先される世界です。

 このため、もし航空会社が貨物の積めない(旅客の手荷物だけはOK)機種に運行を替えてしまったら、どんなに飛行機が運航していても私たちは貨物を載せられません。そう考えると、最近機種がどんどん小型化する中で、ボンバルディアは小さいわりに少量ながら貨物が積める貴重な機種だったんです。

 航空貨物というのはとかく制約の大きいものです。旅客だと、同じ会社で20分、会社が違っても40分で乗り継ぎできるのが普通ですが、足がない貨物では同じ会社でも最低2時間かかります。時刻表は旅客と同じものを使うため、「乗り継ぎ可」に騙されるわけにはいきません。私たちがふだん連想するような危険物が持ち込めないのはもちろん、貨物室に与圧装置がないため単なる気体や液体でも危険物扱いになります。貨物室の床強度以上の重量がある貨物は飛行機用コンテナにしか積めませんから、そういうコンテナを積めない機種では貨物の運送自体ができないこともあります。また、航空会社で貨物を持ち込むまでや航空会社で貨物を受け取って以降のことは、原則として飛行機を使う運輸会社が自前で輸送ネットワークを構築せねばならず、それも民間企業ですので、現地まで荷物を送れたからといってすぐ配達できるとは限りません。最寄の空港でなく別の空港を使うこともあり、しかもどの機種がいつ運行されているか、欠航はないか(=今後の天気はどうなりそうか)、ふだん貨物で混雑してないか、そうしたことから集荷は今すぐせねばならないのか後でいいのかなど、いろいろ考える必要があります。それでも、そうした諸条件を考慮しながら、会社として収入を拡大していかねばなりませんでした。航空業務だけやってる店ならまだ互いに理解がありますが、普通にトラック輸送を主体としている店だと同僚とは動き方が違いますので、「自分のことだけ考えてればいい」とならないように気を使う必要もあります。

 そうこうしてると、トラック便では着かないようなエリアへ早く届けるために航空部門に依頼が来ることもあります。急にそういう依頼が来てもいいように、トラック便と航空とでの所要時間やルートの違いを予め把握しておく必要があるのですが、あまり荷動きが活発でない地域に飛行機なら早く着く場合、「ボンバルさん、サンキュ」と心の中でつぶやくこともあるのです。何せボンバルは経済力の小さい地域へのフライトが多いですからね。面白いことに、距離的に同じくらいのところでも、経済力の小さいところだとトラックが早く着かないことが多いんですよ。

 もちろん、経済活動のために安全性が犠牲にされていいわけはなく、その意味で今回ボンバル社は大きく問われていることになります。しかし、低燃費で速く低コストというのがいかに地方にとって重要な指標になっているかも、今回図らずも示した形になるでしょう。それをうまく生かすためにも、今回動きの鈍いボンバルディア社、もっと積極的に対応してほしいと願っています。

2007年3月13日 (火)

小西桂子さんのこと

 朝日新聞の3月11日付を読まれた方。朝日の生活面には「ひととき」という投書欄がありますが(一般の全国紙ならどの新聞にもある)、少なくとも名古屋本社版では小西桂子さんが書いたものになってました。

 何を隠そう、私は昨年までの3年弱、小西さんと同じ職場で働いていました。「ひととき」をお読みになった方にはお分かりかと思いますが、小西さんは耳が不自由です。ご本人をはじめ耳の不自由な方々には失礼な話ですが、そういう方が働いておいでであることに私は正直びっくりしました。自分でいわゆる障害をお持ちの方に理解あるほうだと思ってましたので不本意なのですが・・・。しかし、とてもチャーミングな性格の方で、すぐに仲良くなりました。それと、年齢(このブログではあえて伏せておきます)のわりにとても若々しくく見えるんですよ。昼休みの食堂で、よく筆談で会話したものです。小西さんとコミュニケーションをとってる人は、正直他に殆どいませんでしたが・・・。

 小西さんが「ひととき」で書いておられたのは、会社の昼礼(朝礼ならぬ)でのことでした。補聴器で「何かしゃべってる」と分かる程度にしか聞こえない小西さんが、新人紹介(へー、新しい人が入ってきたんだ)のとき、周囲が大笑いしてたことに自分が加われなかった、という話でした。当日は小西さんご自身の誕生日だったから泣くまいと思っていたのに泣いてしまったこと、ダンナさんとのやりとりや異国(私はどこか知ってます)の娘さんとのEメールのやりとりで救われたエピソードも書かれていました。

 彼女は勤務22年のベテランです。であれば、昼礼の内容も誰かが後でサマリー(概要)を誰かに渡してもらっているに相違ない、と私は甘くみていました。しかし、結果的に彼女の力になれなかったまま退職してしまっていたわけで、申し訳ない気持ちになりました。もっとも私自身が彼女のために「直接」何かをすることは、他部署と違って一分一秒後には何が起きるか分からない部署だっただけに、無理だったことでしょうけれど(それなのに一人でいろいろやらねばならず際限なく残業が延びたのが、退職の大きな理由でしたし)。

 最近バリアフリーということがよくいわれます。バリアからの解放ということでしょう。しかし物理的バリアではないバリアがこうしてまだまだ存在することに愕然とします。背景にはやはり、健常者と呼ばれる大多数の人々「しか」前提にしていない社会、というものがあるのではないでしょうか。だからこそ、国民がすべて平等とされて半世紀以上経ってようやくバリアフリーという概念が定着したのでしょう。こういう社会であるかぎり、いわゆる障害のある人の負担は大きいままなのです。しかも最近、受益者負担とかいって、そういう人にしわ寄せするような政策まで平気でなされるわけで・・・。

 いつになったら「自分たちさえよい」社会でなくなるのでしょうか。

2007年2月28日 (水)

カノッサの屈辱2007

 お読みの方々は「カノッサの屈辱」をご存知でしょうか。1990年頃、化粧品、ビール、アイスクリーム等の生活風俗の歴史を、日本史や世界史の講座番組のパクリの形に作り上げた、爆笑バラエティ番組です。

 企画していたホイチョイプロダクションが、映画「バブルへGO!」を制作したのにちなんで、このたび「カノッサの屈辱」がめでたく一晩限りの復活を遂げました。フジテレビでは2月5日(月)深夜(6日未明)に放送されましたが、こちらの東海テレビでは26日(月)深夜(27日未明)にやっと放送されました。この間、関西テレビ「あるある大事典」事件は大きくなるばかりで、同じ日本テレワークの作品だけに打ち切りにならないか心配してました。いやー、待ちました。

 録画して視聴したのですが、冒頭に「恩師・仲谷昇教授に捧ぐ」というブラックバックの字幕が出た(前任の俳優・仲谷氏が亡くなったため)こと、タイトルにバブルへGO!にちなんだ特番である旨のテロップも出る一方で題字の下村哲也さんの名がなかったこと、「基礎力を確かめよう」がなかったこと以外は、全く以前の通り作ってくれました。オープニングとエンディングでで服部克久さんの「夕陽」が流れるのも同じです。伊武雅刀さんの教授ぶりは仲谷さんの落ち着きがなく、歴史学者の重みがない感じがしますが、まあまあでした(彼は映画のほうにも出てます)。

 今回は「携帯電話の歴史」。ルネサンス前から大航海時代にかけてのヨーロッパ史になぞらえていました。ちゃんと自動車電話の時代から取り上げてくれて好感が持てました(神戸町も、名古屋圏の大垣と同じエリアだったので、アンテナがあったんですよね)。でも、N帝々国(NTT)はN帝々ドコモ「と名を変えた」んじゃなくて、NTTから分離独立したんだよな・・・。CMに出てた人のネーミングが笑えるのは今回も同じです。

 この番組、例えばエンディングでいったん真っ暗になってロールテロップが流れること一つとっても、完全にNHKの教養番組のパクリなんですよね。

 一度2000年にも復活したそうですが、またやってくれないかなぁ・・・。

 他地域の遅れネットぶりはどうなんでしょうか。

フジテレビの公式ホームページ

 http://www.fujitv.co.jp/fujitv/news/pub_2007/070125canossa.html

2007年2月25日 (日)

NHKで通販番組?

 先日の「NHKと民放は切磋琢磨してる」という話にもつながりますが・・・

 この間、NHK教育の「5・6年 読み書きのツボ」を見てました。これ、光浦靖子さんとパペットマペットのお二人(?)、それにこのたび「のど自慢」司会に決まった徳田章アナウンサーが出てまして、今回は「広告のウソを見ぬけ!」というテーマだったのですが・・・

 番組の真ん中くらいで、なんと、通販番組ソックリの映像が出ていたんです。いえ、ソックリというよりも、あれで値段と電話番号さえ出てくれば、通販番組そのものでしたね、あれは。

 NHKで商業行為ができないのはもちろんですが、通販番組って目立たない時間帯にヒッソリとやるものというイメージがありますし、また、大きい局ほどやらない、というイメージもあります。そういう意味でも驚きでした。

 しかし、予算が少ないはずの教育テレビでいとも簡単にああいう映像が作れてしまうということは、通販番組の商品紹介部分の映像ってそんなにカネかけなくてもできる、ということなんでしょうね。きらびやかだから、もっとカネかかってるのかと思いましたが。

 放送はしばらく続くようで、NHKのホームページによると2月28日と3月2日も同じ内容とのことです。興味のある方はぜひ見てみてください。

 なお、「読み書きのツボ」には3・4年向けもあり(こちらが元祖です)、内容が全く違いますので、ごらんになる方は注意してください。

2007年2月24日 (土)

「中心角占いハイパー」?

 私は昨年1月、それまで14年間働いてきた会社を、いろいろ思うところがあって辞めました。当時37歳、転職するにはちと厳しい環境で、しかも今までの1年間、一時的に採用になったり採用になるかもしれないアルバイトもやったりしたので、余計に落ち着きませんでした。

 そんな中、「失業中に多少の収入になれば」という軽い気持ちで、とある学習塾のアルバイトを始めました。個別授業をやるところです。

 今まで学習塾というと、マスコミによく出てくる塾のように、子どもをカリスマ講師みたいな人がひたすら尻を叩く、というものだと思っていました。自分自身が通ったことがないので。行ったことのない人は、案外同様に思っておいでではないでしょうか。

 ところが、いざ行ってみると、そうした思いは崩壊してしまいました。そこの室長さんが自由にやらせてくれるからということもあったのですが、手法は講師に任されています。私はもともと「勉強って面白くない、というのはある意味偏見だ」と思ってましたし、中学の頃から「こういうふうに接すれば面白く説明できるのに」というようなことも思ってました。また、「どうせやるなら、解法パターンを覚えるより本人が思考するようになるのが先」とも思ってました。せっかく講師を務めるのなら、こういう条件をクリアしたいと思っていました。それらを、見事にクリアすることができるんですね。これは面白い! でも、ここって正社員は募集してなさそう・・・(実際、さりげなくリサーチしたら募集してませんでした。)

 そう思っている中で先月、個別指導の塾をたまたまハローワークで見つけ、応募したところ採用が決まりました。今行ってる塾と同じフランチャイズですが、別法人が経営しています。しかし、どこの塾でも人手不足気味で、今行ってる塾でも契約期間はまっとうしてほしいといわれましたので、今のところ、新天地で働き始めるのは来月下旬になりそうです。

 そういうわけで、採用が決まったにもかかわらずまだ新天地で働けない状態で、今まで行ってたほうの塾で「教えて」るのですが、23日に面白い小ネタがあったので報告します。

 この日に接した子どもの一人に中1の男の子がいます。金曜は数学と理科の日で、本来学年末テストを解説するはずが持参を忘れたので、学校の授業で少し触れたという「おうぎ形」をやりました。習う事項を確認していろいろ問題を解くのですが、中に「おうぎ形の半径と弧の長さが与えられている条件で、中心角を求める」問題がありました。半径を二倍したもの(直径)に円周率をかければ、円周の長さが求まりますから、それと弧の長さとを比べれば、中心角が求まりますね。

 こういう問題を視覚的に理解するために、私はおうぎ形とそのおうぎ形が属して?いる円の図(絵)を描くように子どもに勧めています。しかし、中心角の分からないままにおうぎ形を描きますから、実際のおうぎ形に合った形とは限りません。中にはショートケーキのように描いたのに実際はパックマン(古っ!)みたいになるケースもあります。次に面積を求める問題が控えてますので、絵を訂正したほうが無難なのですが、描いたおうぎ形と実際のおうぎ形が180度違うことが実際にありました。

 それを見て私は思わず「かわいそうに。運が悪いなぁ。自分が最初に描いた形と近いとラッキーやね」と言いました。笑った相手を見て、さらに私は「中心角占い、ハイパ~!」と言ってしまいました。これは一種の勝負です。相手が「めざましテレビ」の終わりがけを知らなければ、このギャグはウケません。

 それを聞いた相手は・・・「めざましテレビじゃないですか!」と返してきました。ラッキー! でも「あれって8時直前なんだよな」と雑談になってしまいました。いかんいかん。

 実は彼とは、以前にも反比例のグラフ(双曲線ですね)でグラフの端のほうが反って描かれてたのをきっかけに、「いかに反比例のグラフをうまく描くか、反比例グラフ選手権でもやるか?」と盛り上がったことがあります。「TVチャンピオン」でやれば、0.1ミリ単位で評価されるのは間違いなさそうですね。

 皆さんも、仕事や学校時代のネタってギャグにしてませんか? そのほうが楽しいですよね。

2007年2月20日 (火)

がんばれ、民放の教育番組

うみがめさんのブログ「うみがめのスローライフ」を拝見してて思い出しました。・・・いや、トラックバックするのは初めてです。直接の関係はない話題ですが。

 皆さんは「百万人の英語」という番組をご存知でしょうか。戦後から1990年代にかけて放送されていたラジオ番組で、日本英語教育協会が制作し自らスポンサーとなって放送されていた番組です。長く文化放送・ラジオたんぱと一部のAM局で放送されてましたが、各地に県域FM局が出来るようになってからはそうした局でも流れてました。

 曜日毎にどんな内容を流すかが決まっていたのですが、長らく英会話一辺倒でない番組づくりをしており、NHKの正・続「基礎英語」の後の会話以外の唯一の番組だったという点で特筆すべきものがあります。例えば私が聴き始めた頃の1986年でいうと、水曜日は読解、それもただ読むだけでなく国際的な諸問題について考える日でしたし、日曜日は隔週で英作文の授業もあったんです。よく語学は「読む・書く・聞く・話す」の4分野があるといわれますが、「実用=英会話」という呪縛から逃れた教育機関がいくつあるでしょうか?

 もちろん民放ですので、聴いてもらうための工夫も満載でした。例えば火曜日は発音練習の日ですが、例えば「get a」なら「ゲら」と読ませてしまうような独特の教え方(講師は「ゲラゲラ・メソッド」と呼んでました)をしたうえで、公開生放送の道場やぶり形式にしてたんですよ。また番組でパーティーをやってしまう曜日、映画の英語の日、ポップスで英語の日もありましたし、英語をダシに文化の違いをDJする番組もあったんですよ。英語をウリにしてた早見優の持ち時間もあり、「大学受験講座」でも有名だったJ.B.ハリスさんの日もありました。オープニング(ハイドンの「時計」)がちょっと古めかしかったですけど。

 民放って、少しでも多くの人に番組を見聞きしてもらうためのメソッドをいっぱい持っていると思うんですよ。ちょっと前までは、この「百万人の英語」のように、そういう手法を還元できる教育番組もあったのですが、今はそういう番組がなくなってしまいました。テレビの民教協の番組は、殆どドキュメンタリーしかない状態ですし。

 教育番組に限らず、民放とNHKって、「こんな分野でも面白く見られるのか!」「こんな演出手法があったのか!」って切磋琢磨できる同士でやってきたと思うのですが、最近教育番組というとNHKの独壇場となってしまい、残念です。「ピタゴラスイッチ」など斬新な番組がNHKからしか出ないのは、民放の創造力・想像力が落ちたということでは? 奮起を期待しています。

2007年2月19日 (月)

養老鉄道、再始動

 以前このブログでも書いたことのある近鉄養老線。2月14日、近鉄は廃止届を国土交通省に届け出ました(中部運輸局経由)。

 とはいえ、これは予め地元で、運営を新会社へ移行させ、保有や管理は引き続き近鉄で行う、と決められていたが故の措置。同時に近鉄は、近鉄100%出資の「養老鉄道」という運営会社を設立させています。しかし、提出がこんなに早いとは。

 名前が「養老鉄道」とは、創業当時の名前に戻るということですね。もっとも愛称がこれから募集されるようですが。

 運営は新会社に移行しますが、運賃が値上げされること以外は現状と変わらなさそうです。養老線に関わる社員は新会社への出向等でそのまま残るそうです。保線の費用が圧縮されることと運賃値上げで収入微増が予想されることから、赤字は圧縮できそうですが、新聞も報じている通り、抜本的な改善策にはなっていないと私は思います。

 養老線は大垣以南では国道258号線と似たようなコースを取っていますが、途中で高田や養老に寄っており、スピードもそんなに速くない養老線は、普通に車で258号線を走るより時間がかかるのが現状です。であれば、まずスピードアップが必要です。同じことは大垣以北にもいえます。自治体はそこまで踏み込まないと、長期的には無駄なカネをつぎ込むことになります。別会社になった以上、自治体負担でルート変更や駅新設も真剣に検討すべきです。特に養老~駒野では、客のいない山腹を走っており、山麓の住民という客を逃しています。

 また、ワンマン化した一方で大垣駅では車内で運賃収受を行わないため、無人駅で乗車し大垣で降りる客(乗客の大半)は大垣駅の精算機と窓口で長蛇の列を作っています(もちろん無人駅も合理化で増えてます)。こんなことでは明らかにサービスダウンです。早急に改善策を示さねばなりません。

 この大垣でJR等に乗り換える場合にも、もっとスムーズにできる方法があるのではないでしょうか。せっかくTOICA対応改札機が乗り換え改札口にあっても宝の持ち腐れです。おそらくそのままJRに乗り入れても、そこそこ乗客は見込めるでしょう。

 あと、石津以南、せめて多度以南は3線レールにすべきではないでしょうか。桑名方面への流動が大きい以上、名古屋や津方面への連絡も考えるべきだと思うからです。幸い養老線の車両はすべて他線からの移籍組で、名古屋線の車両限界は楽々クリアできるはずです。桑名口では、従来の近鉄線との乗り継ぎでの割引も考えるべきです。

 接続する交通とのリンクもむろん考えねばなりません。養老鉄道の魅力が増しても、駅からと駅までが不便ではどうにもなりません。揖斐川町と海津市にしかないコミュニティバスを増やしたり、既存バスを路線図で案内したりすると同時に、養老鉄道のどこで降りれば目的地(むろん観光地だけでなく集落等も)に行けるかが分かるような仕組みが要ります。タクシーのいる駅の表示も必要でしょう。ふだん使わない人でも使い勝手がよくないといけないのです。

 将来的には、樽見鉄道や、関の会社が復活を画策している旧名鉄揖斐線との合併も視野に入れないといけません。また、せっかく近鉄から分離されるのですから、海津市民や養老町民のために、駒野から津島までの高速新線も、地元中心に自治体の支援を得て積極的に進めていくべきだと思います。名鉄名古屋から美濃高田くらいまで直行が走ると地元も潤うことでしょう。

 沿線自治体と岐阜県が、公共交通支援のアリバイ作りを主眼として、赤字を補填して終わり、では養老線はよみがえりません。ところがそのための声は、各自治体がバラバラでアリバイ的に受け付けるだけ、しかも現在の住民しか念頭に置いていません。これは多目的のNPOにもいえます。NPOの場合はアイデアしか出さない者を嫌う傾向すらあります。新会社を含め、積極的に声を受け止める永続的な窓口は今後出来るのでしょうか。ぜひ作るべきだと私は思っています。

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