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NHK時計

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2007年3月28日 (水)

新しい自分へ

 昨年1月31日限りで、それまで14年間勤めていた会社を辞めました。

 もともと器用でもない者が運輸会社にいることには無理がありました。何をやらせても「どんくさい」し、私の場合つい考え込んでしまうクセもあり、常に自分らしさと正反対のことをせねばならない辛さがありました。

 しかし、辞めた理由はそれだけではありません。同族会社ゆえか上意下達の強さ。それでいて厳しい言動のわりに裏の評価が甘く、会社としていつまで経っても利益が出ない体質。会社としてはメインでない自分の仕事への周囲の無理解。・・・いろいろありました。

 世では転職のリミットは35歳といわれます。37歳で転職に踏み切るということは、それだけでハンディがあります。まして私には転職に生かせるような資格はありません。しかし前述の状況を考えると、これ以上前の会社にいるメリットはありません。進むも地獄、退くも地獄の思いでした。しかしどうせ地獄ならば、自分らしく生きたいと思いました。働きながら転職活動のできる状況ではなかったので、思い切って踏み切りました。

 辞めてはみたものの、自分がどんな方向に進んだらよいかも分かりません。沈思黙考が得意とはいうものの、それが具体的な職業に結びつくようにも思いませんでした。とりあえず事務か、地理好きなので旅行代理店も受けてみるのですが・・・ 事務だとキャリアが要ります。事務のような現業のような営業のような・・・という中途半端な仕事だった私にはマイナスです。旅行代理店だとやはり資格かキャリアが要ります。今更学者の道も遠いです。資格や大学院を考えると費用がかかりますが、そんなお金はありません。無理して違う仕事に就くと、あとあと私の心身にもマイナスです。今後ますます転職が厳しくなるというのに。14年働いて自己都合で辞めた場合、3ヶ月の待機期間を経て失業給付が6ヶ月間受けられることになりますが、果たしてその間に新就職先が見つかるのか・・・。

 そうこうしてるうちに、辞めて3ヵ月後の4月中旬、とあるNPO法人から土曜に面接し即内定を頂き、翌月曜から働くことになりました。このNPO法人は、企業や役所と多くのNPOとが協働できるように作られたもの(純民間)で、意義からすると面白そうに思えました。しかし実際には、まだ協働は軌道に乗っておらず、行政やその関連団体の助成を受けることが主な仕事でした。そうなると企画書が書けないといけません。企画書を書くためには、具体的に何をするか、何をどれだけ用意するかのセンスがないといけませんし、それに沿って予算をつけられないといけませんが、私にはそんなセンスはありません。残念ながら、やってゆけないことを自覚せざるを得ませんでした。そればかりでなく、代表理事といわれる人がすべてを仕切ろうとし、細かい点まで思い通りになってないとすぐキレるわりに自分の思いを具体的に伝えないことにも嫌気が差しました。結局1ヶ月強で辞めました。試用期間だったので退職金は当然ナシですし、働いた期間が短かったので新たに失業認定を受けるのではなく前の会社の失業認定期間に入るので、先行き不安です。

 就職活動をしつつ、次の機会が来たのはその年の7月でした。教材を編集する会社(事実上は校正が主な業務)でアルバイトに応募したのです。面接した感じでは、業績次第では正社員登用もあり得るということでした。入ってみると、ちょうと期限が迫っている仕事が多く、ライターさんが解いた問題をこちらでひたすらチェック(つまり自分も解いたり書式があってるか確かめたりする)してました。とてもやりがいがある仕事で面白かったのですが、やり始めた時期の仕事が途絶えると、仕事がだんだんなくなってきました。ついにある日、自宅待機を打診されました。9月でした。厚生年金に入ってる会社でしたので、国民年金免除の手続きもまたやり直さないといけません。いやそれより就職活動・・・。

 その後、11・12月と、社会的起業の講習を受けてました。これは県が雇用能力開発センター(国管轄)との共同企画ですので、費用がゼロなうえ失業給付が受けられます。もし会社に就職しても経営の基礎知識は得られますので、受けました。終わって5日後、ついに失業給付期間が終了しました。

 さて、実はここまでの間、少しでも収入が得られ働くことで精神的安定も得られるようにと、この年の3月から個人指導塾の講師をアルバイトでやるようになりました。といっても子どもを追い立てる進学タイプでなく補習型なのですが。個人指導ということになると、その子どもがどこでつまづいているかを客観的に把握する必要がありますし、学習内容に少しでも興味を持ってくれるよう楽しくやらないといけません。このあたり、いざやってみるととても面白く感じましたし、とても手ごたえを感じました。このことと、7月に全く別の団体が主催したサマーセミナーという「誰でも講師になれどんな分野でも講義できる」イベントに参加してくれた人の言葉により、「教える」仕事が向いているのではないかと思うようになりました。

 そこで、この年の年末から今年はじめにかけて、2つの学習塾に応募しました。年末に応募したところは蹴られましたが、今年はじめに応募したところには、1月末に内定をいただきました。しかも、今までやってきた学習塾と同じフランチャイズなのです。同じフランチャイズゆえ、かえって移籍が難しくなってしまい、今まで勤務していたところの契約の満了(3月28日)を待って働き始めることになりました。新勤務先のオーナー社長は、本当は2月初旬からA校で室長をやる想定をしていましたが、移籍遅れのためB校の副室長という形になりました。本部での研修も同様に2ヶ月ズレ込みます。

 で、きのう(27日)、最後の旧勤務先へ出発したのですが、途中で室長から、きょうは室長がかわって授業をするとの連絡を受け、最終回はなくなってしまいました。子どもさんには最後の授業である旨は言えないことになってますので、さようならはもともといえませんし、オーナーである室長が授業を代行することはきょう28日を含め数回あったのですが、当日に突然言われたのは初めてでした。あっけない幕切れにしばし呆然としました。

 今までいったい何社応募したでしょう。自分でもあまりに多すぎて数えられません。

 さあ、気分を切り替えて、あすから新天地での勤務が始まります。あす・あさってはアルバイト扱いながらフル勤務、来週から正式に正社員として働きます。管理業務が加わるとはいえ、今まで1年間やってきたことも多いので、今度こそ離脱することはないでしょう。年収300万にも満たない給料ですが、やりがいと働く喜びがせっかくありますので、無駄にしないようにしていこうと思っています。

2007年3月16日 (金)

私的ボンバルディア考

うみがめさんの「うみがめのスローライフ」の「ボンバル機胴体着陸」にトラックバックしています。(今までうみがめさんにしかトラックバックしてないのですが、あくまでたまたまです。)

 先日高知空港で、ボンバルディア社製飛行機の前輪が出ず胴体着陸するということがありましたね。

 ボンバルディアと聞いて私は正直「懐かしい!」と思いました。なぜなら、私は昨年まで航空貨物の仕事に携わっていたからです。

 航空というとまず旅客のことを指し、たまに航空貨物という言葉が出てきても国際貨物を指すことが多い日本の航空の世界ですが、国内航空の貨物もあります。とはいえ日本では、私の入社当時で航空会社の国内貨物の売上は国内総売上のわずか4%しかない(この数字は今も大差ないと思う)ため、旅客部門の意向が優先される世界です。

 このため、もし航空会社が貨物の積めない(旅客の手荷物だけはOK)機種に運行を替えてしまったら、どんなに飛行機が運航していても私たちは貨物を載せられません。そう考えると、最近機種がどんどん小型化する中で、ボンバルディアは小さいわりに少量ながら貨物が積める貴重な機種だったんです。

 航空貨物というのはとかく制約の大きいものです。旅客だと、同じ会社で20分、会社が違っても40分で乗り継ぎできるのが普通ですが、足がない貨物では同じ会社でも最低2時間かかります。時刻表は旅客と同じものを使うため、「乗り継ぎ可」に騙されるわけにはいきません。私たちがふだん連想するような危険物が持ち込めないのはもちろん、貨物室に与圧装置がないため単なる気体や液体でも危険物扱いになります。貨物室の床強度以上の重量がある貨物は飛行機用コンテナにしか積めませんから、そういうコンテナを積めない機種では貨物の運送自体ができないこともあります。また、航空会社で貨物を持ち込むまでや航空会社で貨物を受け取って以降のことは、原則として飛行機を使う運輸会社が自前で輸送ネットワークを構築せねばならず、それも民間企業ですので、現地まで荷物を送れたからといってすぐ配達できるとは限りません。最寄の空港でなく別の空港を使うこともあり、しかもどの機種がいつ運行されているか、欠航はないか(=今後の天気はどうなりそうか)、ふだん貨物で混雑してないか、そうしたことから集荷は今すぐせねばならないのか後でいいのかなど、いろいろ考える必要があります。それでも、そうした諸条件を考慮しながら、会社として収入を拡大していかねばなりませんでした。航空業務だけやってる店ならまだ互いに理解がありますが、普通にトラック輸送を主体としている店だと同僚とは動き方が違いますので、「自分のことだけ考えてればいい」とならないように気を使う必要もあります。

 そうこうしてると、トラック便では着かないようなエリアへ早く届けるために航空部門に依頼が来ることもあります。急にそういう依頼が来てもいいように、トラック便と航空とでの所要時間やルートの違いを予め把握しておく必要があるのですが、あまり荷動きが活発でない地域に飛行機なら早く着く場合、「ボンバルさん、サンキュ」と心の中でつぶやくこともあるのです。何せボンバルは経済力の小さい地域へのフライトが多いですからね。面白いことに、距離的に同じくらいのところでも、経済力の小さいところだとトラックが早く着かないことが多いんですよ。

 もちろん、経済活動のために安全性が犠牲にされていいわけはなく、その意味で今回ボンバル社は大きく問われていることになります。しかし、低燃費で速く低コストというのがいかに地方にとって重要な指標になっているかも、今回図らずも示した形になるでしょう。それをうまく生かすためにも、今回動きの鈍いボンバルディア社、もっと積極的に対応してほしいと願っています。

2007年3月13日 (火)

小西桂子さんのこと

 朝日新聞の3月11日付を読まれた方。朝日の生活面には「ひととき」という投書欄がありますが(一般の全国紙ならどの新聞にもある)、少なくとも名古屋本社版では小西桂子さんが書いたものになってました。

 何を隠そう、私は昨年までの3年弱、小西さんと同じ職場で働いていました。「ひととき」をお読みになった方にはお分かりかと思いますが、小西さんは耳が不自由です。ご本人をはじめ耳の不自由な方々には失礼な話ですが、そういう方が働いておいでであることに私は正直びっくりしました。自分でいわゆる障害をお持ちの方に理解あるほうだと思ってましたので不本意なのですが・・・。しかし、とてもチャーミングな性格の方で、すぐに仲良くなりました。それと、年齢(このブログではあえて伏せておきます)のわりにとても若々しくく見えるんですよ。昼休みの食堂で、よく筆談で会話したものです。小西さんとコミュニケーションをとってる人は、正直他に殆どいませんでしたが・・・。

 小西さんが「ひととき」で書いておられたのは、会社の昼礼(朝礼ならぬ)でのことでした。補聴器で「何かしゃべってる」と分かる程度にしか聞こえない小西さんが、新人紹介(へー、新しい人が入ってきたんだ)のとき、周囲が大笑いしてたことに自分が加われなかった、という話でした。当日は小西さんご自身の誕生日だったから泣くまいと思っていたのに泣いてしまったこと、ダンナさんとのやりとりや異国(私はどこか知ってます)の娘さんとのEメールのやりとりで救われたエピソードも書かれていました。

 彼女は勤務22年のベテランです。であれば、昼礼の内容も誰かが後でサマリー(概要)を誰かに渡してもらっているに相違ない、と私は甘くみていました。しかし、結果的に彼女の力になれなかったまま退職してしまっていたわけで、申し訳ない気持ちになりました。もっとも私自身が彼女のために「直接」何かをすることは、他部署と違って一分一秒後には何が起きるか分からない部署だっただけに、無理だったことでしょうけれど(それなのに一人でいろいろやらねばならず際限なく残業が延びたのが、退職の大きな理由でしたし)。

 最近バリアフリーということがよくいわれます。バリアからの解放ということでしょう。しかし物理的バリアではないバリアがこうしてまだまだ存在することに愕然とします。背景にはやはり、健常者と呼ばれる大多数の人々「しか」前提にしていない社会、というものがあるのではないでしょうか。だからこそ、国民がすべて平等とされて半世紀以上経ってようやくバリアフリーという概念が定着したのでしょう。こういう社会であるかぎり、いわゆる障害のある人の負担は大きいままなのです。しかも最近、受益者負担とかいって、そういう人にしわ寄せするような政策まで平気でなされるわけで・・・。

 いつになったら「自分たちさえよい」社会でなくなるのでしょうか。

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